1章 (01) 光のふもと

 日光の朝は静かだ。夜明け前、澄んだ空気はひんやりとして頬を撫で、細尾勝道の呼吸は静かな白い霧となって消えていった。東の空が徐々に色づき、男体山の輪郭が薄明に浮かび上がる。町はまだ眠りの中で、すべてが動きを止めたようだった。

「男体山さま、おはようございます」

 彼は毎朝、この時間に男体山へ向かって小さな声で挨拶をした。それは祖母から教わった、昔から続く日光の暮らしの一部だった。男体山は日光の人々にとって神そのものであり、山岳信仰の対象だった。祖母はよく勝道に語って聞かせた。

『この日光を開いたのはね、勝道上人という偉いお坊さまなんだよ。お前の名前はその方の名前をいただいたんだから、立派に生きなければいけないよ』

 祖母がそう話すとき、いつも慈しむような、けれどもどこか厳しい目をしていた。その言葉の重みを、勝道が本当に理解するには、まだもう少し時間が必要だった。

 勝道は地元の日光総合高校を卒業後、細尾地区に本社を置く『細尾電力株式会社』に入社した。入社2年目の若い電気技術者だ。細尾電力は、この地域に四つの水力発電所を運営している。その中でも最も古い歴史を持つ『細尾水力発電所』が、彼の勤務先だった。

 この発電所の歴史は古く、明治時代初頭、地元の資産家らによって設立された『日光水電製錬所』という会社に遡る。製錬所は足尾銅山で採掘された銅鉱石の製錬に電気を供給するため、水力発電所を細尾地区に建設した。それがこの発電所の起源であり、のちに『細尾電力株式会社』となったのだった。

 会社に着くと、入口で主任技術者の山本が穏やかな表情で出迎えた。彼は、入社間もない勝道にとって、仕事の技術面だけでなく、人としてのあり方までをも教えてくれる尊敬する人物だった。

「おはよう、細尾君」 「おはようございます、山本主任」 「今日も朝が早いな。若いのに感心だ」

 勝道は照れ笑いを浮かべた。施設内に入り、発電設備を巡回すると、微かな機械音と水流の響きが耳を撫でる。彼はふと壁に掛けられた古い写真に目を留めた。そこには、『日光水電製錬所』時代に働いていた技術者たちが並んでいた。皆、未来への希望に満ちた目をしていた。

「昔の人たちは、どんな想いで電気を送っていたんでしょうね」

 勝道は静かに呟いた。山本も写真を見つめながら答えた。

「彼らは電気が暮らしを変えることを信じていた。だがその一方で、製錬所は足尾銅山と深く結びついていたからな。銅山の繁栄は、地域に富と雇用をもたらしたが、一方で鉱毒問題などの深刻な影響も引き起こした。彼らの胸の内は複雑だっただろう」 「電気というものが、人々の暮らしを良くも悪くも変えてしまった……」 「そうだ。だからこそ、私たちは、何のために電気を作り、誰のために送り届けるのか、常に考え続ける必要があるんだよ」

 主任のその言葉が、勝道の胸の奥に静かに染み込んだ。

 作業を終えて、勝道は帰路についた。夕暮れの中、自転車を漕ぎながら祖母が話してくれた中禅寺湖の話を思い返した。祖母は時折、寂しそうにこう言った。

『中禅寺湖は神様の湖だった。昔は女性は湖畔に近づけなかった。それがいつしか観光地になってしまった。湖は今も美しいけど、そこに神様がいるのか、私にはわからなくなってしまった』

 何かが変わるということは、同時に何かが失われることなのかもしれない。勝道はそのことを考えた。昔の人々が見つめていた未来と、今、自分が見つめている未来。その間に、失われてしまったものは何なのだろう。

 彼は自転車を止めて、夕陽に染まる男体山を見上げた。その美しさは、胸が痛くなるほどだった。

「俺はまだ、この町のことも、自分の名前の本当の意味も、何も知らないんだな……」

 勝道の中に静かな問いが芽生えはじめていた。それはまだ小さな芽だったが、この日光という土地の深く複雑な歴史に触れることで、ゆっくりと確実に成長を始めていた。

 彼が背負う名前には、この町を切り拓いた勝道上人の意志が込められている。だが、自分が切り拓くべき道が何なのか、それを知るための旅は、ようやく始まったばかりだった。

 ゆっくりと動き出す長い物語の、その最初の一歩を踏み出した勝道を、男体山はいつものように、静かに見守っていた。