その朝もまた、白かった。
曇り空の白さとは違う。雲の奥に光が潜み、何かが溶け込んだように白濁している東京の空。ここでは、朝はいつも淡くぼやけ、輪郭のない世界が目の前に広がる。
赤沢浪平が目を覚ましたのは、そのような空が窓辺からゆっくりと部屋の奥に滲み出してきた頃だった。寝不足と不安を纏った重たい身体を起こすと、ベッドのスプリングが小さく軋んだ。狭い部屋には、昨夜、夢の跡のように広げられた電子回路の基板や数冊の参考書が散乱している。
時計を見ると、まだ授業までは時間があった。浪平はぼんやりとした意識の中で、白いカーテンを引いた。向かいの東京帝都大学植物園の緑がかすかに視界に入り、心を和らげる。ここ白山は都会にしては静かな街で、春の日差しが柔らかく差し込む窓辺には、つかの間の安らぎがあった。
浪平はぼんやりとコーヒーを淹れる。湯気が立ち上り、苦味と香ばしさが空気を満たす。それを口に含むと、ゆっくりと熱が身体に広がり、薄くなった記憶の層がふと目の前に現れた。
――大多喜町。
千葉県の中央部に位置する生まれ故郷は、清らかな水と天然ガス、そしてヨウ素という希少な資源を誇ったが、浪平はそれらをことごとく軽んじ、否定していた。高校時代、町の資源が彼に何の意味を持つというのか。むしろ、狭い世界からの脱出こそが浪平の唯一の望みだった。
政治家になる夢。医学部受験への挫折。そして二浪の末に辿り着いた電気工学の道は、未だ自分のものになってはいなかった。東京帝都大学――名門の理工学部に籍を置いていることが、皮肉にも彼の孤独を深めていた。
周囲には、自信に満ち溢れた同期生たちがひしめいている。最初こそ彼らと交流を図ろうとしたが、少しずつ、自分の心に見えない壁を築いてしまった。いつしか自分は周りの明るさや自信に負け、端の席で目立たないように静かに存在しているだけだった。
――いつから、こうなってしまったのだろう。
カップを手に窓辺に佇むと、遠い記憶の糸が静かに引かれ、胸の奥を少し痛ませた。
机の上で乱雑に積まれた本の中に、『電力発展史――日本の近代化とエネルギー』という一冊が目に留まった。授業の課題だったが、ほとんど関心を持てずに放置したままになっている本だ。浪平は、まるで何かに引き寄せられるように、それを手に取った。
パラパラと無意識にめくる指先がふと止まった。そこには白黒の写真が載っていた。『日立鉱山、中里発電所(明治42年)』と記されている。古い写真だが、どこか力強さと躍動感があり、浪平の目はそこに引き込まれた。
その次のページに、『小平浪平』という名前があった。
その文字を見た瞬間、心臓が強く鼓動した。同じ名の響きに、奇妙なざわめきが胸を覆った。写真の小平浪平は、威厳ある佇まいと鋭い目つきで、真っ直ぐ前を見つめている。世界をその手に掴み取ろうとしているかのような、圧倒的な自信と志がそこには映っていた。
赤沢浪平は、突然、自分の小ささを感じ、無意識に眉間に皺を寄せた。嫉妬や憧れを超えた、説明しがたい感情が押し寄せる。それは、自分の人生がまだ形になっていない空虚さと重なり、言葉にならぬ痛みとなって胸に刺さった。
名前が同じという単純な偶然が、浪平に問いかけてくる。
――自分は、一体どこへ向かっているのだろう。
次第に呼吸が深くなり、知らぬ間に目頭が熱くなっていることに気づいた。自分に失われてしまった、あるいは手に入れることのできなかった強い意志や情熱が、この写真の人物には鮮明に宿っていた。
浪平はゆっくりとページをめくった。そこには鉱山開発、水力発電、そして日本の経済成長に関わる記述が、静かだが力強く展開されている。未知の世界が次第に目の前に広がり始め、彼は自分がこれまで軽んじてきた電気という分野が、実は政治や医療と同様、いやそれ以上に広く社会と人間に根差し、世界を形作っていることに気づき始める。
窓辺の白い東京の空は、まだ淡いまま揺れていたが、浪平にはもはやそれが単なる空虚さとは思えなくなった。目に映るものすべてが微かな可能性を帯びているように感じられ、自分の知らなかった世界の奥深さに畏怖さえ感じるようになった。
静かな時間が流れた後、浪平はページを閉じて小さく呟いた。
「もう少し……知ってみよう。」
呟いた言葉が、ひとりきりの空間に響いた。その音が胸の内で共鳴した瞬間、彼の中でまだ小さな、小さな変化が始まった。
あのぼやけた東京の白い空は、これから彼が歩んでゆく未知の道を、静かに照らし出しているようだった。赤沢浪平の物語は、この静かな朝の淡い空の下、静かに、だが確かに動き始めていた。