0章 (02) 川辺の光景

えつこが初めて羽束川を訪れた日以来、その場所は彼女にとって特別な空間になった。まだ幼い彼女には時間の流れなど意識する術もなかったが、それでも川辺に立つと、いつもと違った心地よい時間が流れていることに気付いていた。

羽束川の川辺はいつも穏やかで、優しく彼女を迎え入れてくれた。えつこは週末になると母の手を引いて川へ行くことをねだり、しばしば散歩に訪れた。川の流れはゆったりとしていて、水面はまるで鏡のように空の色をそのまま映していた。周囲を覆う木々の緑は鮮やかで、時折吹き抜ける風に揺れる葉音が心地よく響いた。

彼女にとって川辺は、言葉では表現できない微妙な感覚を与えてくれる場所だった。幼い心には、友達と遊ぶよりも静かに自然と向き合っている方が心地よかった。内気で引っ込み思案な性格ゆえに、人と接するよりも自然の中で静かに佇む方が心地よかったのだろう。

母は、そんなえつこの気質をよく理解し、静かに見守っていた。ある時母は、川辺に腰を下ろし、静かな声で話しかけた。

「えつこ、川の流れって面白いよね。ずっと止まらないし、同じところには戻らないのよ」

えつこは母の言葉を理解しようとするかのようにじっと水面を見つめた。確かに水はいつも違った表情をしているように感じた。太陽が出ている日はきらきらと輝き、曇った日は静かな灰色に包まれている。風が吹けばさざ波が立ち、静かな日は水面が鏡のように滑らかだった。

その日から、彼女は川を訪れるたびに母の言葉を思い出した。えつこ自身もまた、いつの日か川の水のように流れていくのだろうかと、ぼんやりと考えるようになった。

ある日、川辺で小石を見つけた彼女は、そっとそれを拾い上げ、水面に向かって投げ入れた。石が水に落ちると、小さな音がして、静かな波紋がゆっくりと広がった。その波紋が消えていくのをじっと見つめながら、えつこは不思議な感覚に包まれた。

自分の小さな行動が川の水面に変化を与える。小さな石ひとつでさえ、水面の様子を変えてしまうのだ。その時えつこは、自分もまた小さな存在だけれど、何かを変えることができるのかもしれないと、小さな胸の中で静かに感じた。

川辺で過ごす日々は、彼女に多くのことを教えてくれた。自然は決して急がず、常に自分のペースで流れていること。小さな自分にも何かできることがあるかもしれないこと。そして、静かな時間の中で自分自身と向き合うことの大切さ。

それらは彼女にとって人生の初めての教えであり、川辺で育まれた静かな感受性は、やがて彼女をゆっくりと成長させていくことになる。

まだえつこ自身は気付いていなかったが、羽束川との出会いとそこで過ごした時間は、彼女がこれから歩む長い人生の静かな序章にすぎなかったのだ。