1章 (03) 境界線を越えて

 朝陽が男体山の輪郭を静かに染める頃、細尾勝道は霧降上宮発電所への巡回点検に参加するため、再びいろは坂を登っていた。
 彼の隣には、いつもの穏やかな表情を浮かべた主任の山本が静かに運転している。車窓から望む日光の町並みは薄い霧に包まれ、まるで時間が止まったように静寂の中に溶けていた。

 今回訪れる霧降上宮発電所は、華厳の滝直下の取水設備から取水した水を最初に発電に利用する施設だ。
「霧降『上宮』と『下宮』……名前に意味があるんですね」
勝道が何気なく口にすると、主任は柔らかな微笑みを浮かべながら答えた。
「鋭いな。その通りだ。上宮はかつての神域、下宮は人間の領域だ。女人禁制だった頃の、この地域の歴史を象徴しているんだよ」

 やがて車は、霧降川の流れに沿った細い道を慎重に進み、上宮発電所の敷地へと入っていった。
発電所は男体山の麓にあり、その背後には深い緑に包まれた森が広がっている。設備は小規模だが手入れが行き届き、周囲の自然と完璧に調和しているように見えた。

 主任の指示のもと点検を終えると、彼らは近くにある女人堂跡地を訪れた。そこには小さな祠と古びた石碑が、静かに佇んでいた。
「ここに昔、女人堂があった。女性はここより先、神域には一歩も入れなかったんだ」
主任は祠の前に静かに佇み、遠い記憶を手繰るように語った。

 勝道は石碑に刻まれた文字を指でなぞった。
『女人結界之碑』
指先から伝わる石の冷たさが、彼の胸に静かな問いを投げかけてくる。
「人はなぜ、こうして境界線を引くのでしょうか」
主任は穏やかな視線を男体山に向けながら、ゆっくりと答えた。
「境界線というものは、人が何かを守ろうとするときに引かれる。だが、その線が本当に必要なものだったのかどうか、それを問うこともまた重要なんだ。境界線を越える勇気もまた、必要だからな」

 主任の言葉に、勝道の胸は静かに揺れた。彼は幼い頃、祖母が語っていた日光の物語をふと思い出した。
『私の若い頃はね、中禅寺湖にも華厳の滝にも近づけなかったよ。女人禁制だったから。でも今は自由だね。境界線なんて、見えなくなっただけで、本当は今でもどこかに残っているのかもしれないけれどね』

 祖母のその言葉は、当時幼かった勝道には意味が掴めなかったが、今ようやく、その真意を理解しはじめていた。

 点検を終えた帰り道、主任が車の中でふいに話題を変えた。
「今度、霧降下宮発電所では新しく揚水発電設備を導入する計画がある。それに、大谷川の発電所も地熱発電を導入するらしい。いろいろな境界線が、また生まれるかもしれないな」
勝道は驚いて主任の横顔を見た。
「地熱、ですか?」
「そうだ。天然ガスとの複合利用も考えているらしい。いまや発電も多様化しなければならない時代になった。昔のように水力だけでは難しいんだ」

 勝道は、新たな技術やエネルギーの導入によって生じるであろう地域社会の反応や葛藤を想像した。境界線が消える一方で、新たな境界線が生まれる。それは目には見えないが、確かに人の心の中に存在しているものだった。

「境界線を越えるというのは、きっと簡単ではないですね」
勝道が静かに呟くと、主任は頷いた。
「だからこそ、境界線を引く側にも越える側にも、常に謙虚さが必要だ。私たちは技術者だが、技術というのは決して中立ではない。歴史や社会と深く関わっていることを忘れてはいけないんだよ」

 車は再び細尾の町へと近づいていた。
夕陽が日光の町並みを赤く染め、町の屋根一つひとつを輝かせている。彼はその輝きを見ながら、自分が背負うであろう新たな責任を感じた。自分たちが今、当たり前のように暮らすこの町も、多くの人々が過去に境界線を越え、時には破りながら築いてきたものだったのだ。

 家に戻ると、祖母が静かに微笑んでいた。勝道はその隣に座り、今日の出来事をゆっくりと語りはじめた。祖母はうなずきながら、静かに言った。
「昔の境界線を知ることは、新しい境界線を越える力になるんだよ。お前なら、きっと大丈夫」

 勝道は祖母の穏やかな微笑みを見つめ、その言葉を心の深いところに刻み込んだ。

 彼はまだ、境界線を越えることの本当の意味をすべて理解したわけではない。
しかし、彼の胸に生まれた小さな探究心と決意は確かな熱を帯び、この日光という歴史深き土地のなかで、さらに静かに成長を続けていくのだった。