市川三郷町に朝が訪れると、みさとは決まって自転車に乗り、町を静かに流れる川のほとりへと向かった。ここは釜無川と笛吹川が合流し、富士川となる地点で、笛吹川には芦川も流れ込み、穏やかな水面が広がっていた。朝霧が薄く川面に立ちのぼり、淡く透き通った光が水面を包んでいる。その風景は、まるで時間がゆっくりと流れているかのようだった。
「今日も綺麗だな……」
みさとは自転車を降りて、川辺に立ち止まった。耳を澄ませば、優しく囁くような水の音と、木々の葉擦れの音が静かに響いてくる。彼女はその音に耳を傾けながら、ふと昔の記憶へと引き戻されていた。
幼い頃、この川辺は彼女にとって最高の遊び場だった。夏になれば芦川の澄んだ水で足を浸しながら、夢中で水遊びをした。笛吹川の穏やかな流れでは、兄と一緒に魚を捕まえようと小さな網を片手に追いかけ回した。秋が近づくと、川原に咲く色とりどりの野花を摘んでは花冠を作り、母に喜んで渡した。その頃の記憶は今も彼女の胸に鮮明に刻まれている。
「みさと!」
懐かしい声に振り返ると、そこには幼馴染の美月が笑顔で立っていた。美月とは小学校の頃から一緒に過ごし、家族のように育った大切な存在だった。
「美月、おはよう。今日も早いね」
「うん、みさとがここにいる気がしたから。やっぱり当たった」
美月は明るく微笑んだ。彼女は小さい頃から朗らかで、みんなの人気者だった。
二人は川辺に腰を下ろし、しばらく静かに流れゆく富士川を眺めていた。朝の穏やかな空気に包まれながら、みさとはふと口を開いた。
「ねえ、美月。昔、よくここで遊んだよね。あの頃が一番楽しかったな……」
美月は微笑みながら頷いた。
「そうだね。いつも夕暮れまで遊んで、おばさんに怒られたっけ」
「うん、それでお兄ちゃんがいつも私たちをかばってくれたよね」
みさとは柔らかな笑みを浮かべ、懐かしい日々を追憶した。だがその笑みの奥には、ほんの小さな影が潜んでいた。
「美月は、この町の外に行ってみたいって思うことある?」
ふいにみさとは問いかけていた。すると美月は驚いたような顔をして、やがて静かに答えた。
「うん、時々ね。でも……なんていうか、この町が好き過ぎて、なかなか勇気が出ないなぁ」
美月の言葉に、みさとは深く共感した。外の世界への好奇心が胸の奥底に芽生えているのは確かだったが、それを実行に移すのは容易ではない。みさとはこの町の静かな暮らしを愛し、人々の温かさに包まれていることを何より大切に感じているのだから。
川面を見つめていると、町の中心からは微かに活気ある声が聞こえてきた。市川三郷町では季節ごとの催しが多く、春は特に賑やかな季節だった。特産品の桃の花が咲き誇り、夏の桃や秋のブドウの収穫に向けて、また、花火の準備が少しずつ始まり、街全体がどことなく浮き足立っている。
「また今年も、花火大会楽しみだね」
美月が楽しそうに言った。
「そうだね。毎年楽しみ。やっぱりここが一番綺麗に見える場所よね」
みさとはそう言いながら、川辺を見回した。河原には今は静かな川風が吹いているが、夏には多くの人が集まり、町を彩る鮮やかな花火が夜空を彩る。
「みさとはこれからどうするの?地元で就職するのかな?」
美月の問いに、みさとはふと考え込んだ。自分自身の将来がまだはっきりと見えていないことに気づいたのだ。
「……どうだろう。ここにずっといたい気もするし、外を見てみたい気持ちもある。でもまだわからないかな」
みさとの曖昧な答えに、美月は優しく微笑みを返した。
「それでいいんじゃない?焦ることないよ、ゆっくり考えていけば。どこに行ったって、この町が消えるわけじゃないし」
みさとはその言葉にほっとした。そう、まだ彼女は20歳。焦る必要はなかったのだ。
二人はしばらく川辺で穏やかな時を過ごしたあと、再び自転車に乗って、それぞれの道へと戻っていった。帰り道、みさとはこの町の風景を改めてじっくりと眺めながら、心の奥にある小さな揺れを感じていた。
家に帰ると、リビングには家族の笑い声が響いていた。母が温かい朝食を用意していて、父はいつものように新聞を広げ、兄はのんびりとコーヒーを飲んでいる。そんな何気ない家族の風景に、みさとの心は再び穏やかに戻っていった。
その日の夜、彼女は自分の部屋で日記帳を開き、今日感じたことや美月との会話を書き記した。自分の心の揺れが今後どのような道を開いていくのかはわからなかったが、この町が自分にとってかけがえのない場所であることだけは、はっきりと感じていた。
窓の外では、町が静かに夜のとばりに包まれていく。みさとは日記を閉じて布団に入り、ゆっくりと目を閉じた。心地よい眠りが訪れる直前、彼女の胸には穏やかな幸福感と、かすかな期待が交錯していた。
「きっと、まだまだ知らないことがいっぱいある。それを一つずつ見つけていこう」
静かに訪れる眠りの中で、みさとはそんな未来への小さな決意を心に抱いたのだった。