1章 (04) 故郷への静かな帰還

東京駅を出発した列車は、滑らかに線路を辿り、都会の喧騒から徐々に離れていった。赤沢浪平は窓際の席に静かに座り、流れゆく景色に視線を送った。彼の視線の先には、高層ビル群から住宅街へと変わり、やがて田園風景へと穏やかに移り変わる景色が広がっている。

列車が房総半島の内陸へ進むにつれて、里山のなだらかな丘陵が次第に緑濃くなっていく。車窓の向こうには、水田が鏡のように春の空を映し、点在する小さな集落は緑のなかに静かに息づいていた。

浪平は、幼い頃にこの風景を見つめていた自分を思い出した。あの頃は、この風景が日常であり、特に何の感動もなかった。ただ退屈で、無意味に思えたのだ。しかし、今の彼の瞳には、その風景がどこまでも美しく、柔らかく映るのだった。

――なぜ、これほど美しい故郷に気づけなかったのだろう。

東京に憧れを抱き続け、都会の華やかな光だけを見つめていた自分を、浪平は穏やかな痛みとともに振り返った。自らがいかに狭い視野で生きていたのか、静かに思い知らされた。

列車が養老渓谷に近づく頃、窓の外には渓流がきらきらと輝いて見えた。透明な水が岩を滑り落ち、淡い緑色の木々が岸辺を飾っている。その光景は、浪平に忘れかけていた感覚を鮮明に蘇らせた。

列車はやがて、大多喜駅にゆっくりと滑り込んだ。駅に降り立つと、浪平は胸いっぱいに故郷の空気を吸い込んだ。その風には穏やかな土の匂いと、かすかな新緑の香りが混ざっている。駅前には以前よりも多くの観光客が集い、楽しげな笑い声や談笑が響いていた。

駅前広場をゆっくりと歩き始めると、そこには新しいカフェや地元の特産品を並べた土産物店が並び、明るく賑わっていた。その活気は、かつて浪平が知っていた町とは違い、前向きで、どこか希望に満ちたものに感じられた。

「赤沢くん、ひさしぶり!」

背後から明るい声がして振り返ると、中学時代の同級生である篠原拓也が笑顔で手を振っていた。拓也は、町の活性化を目指す「まちおこし隊」のメンバーとして活動しているらしかった。

「帰ってきたんだな。東京はどうだ?」

「まあ、悪くはないけど……」

浪平が曖昧に答えると、拓也は笑った。

「ちょうど良かったよ、赤沢くん。君みたいな外の目を持った人に、今の大多喜を見てほしかったんだ。」

拓也の表情には自信が宿っている。浪平は彼に誘われるまま、町の散策に出かけることになった。

町を歩いていると、随所に新しい取り組みの息吹が感じられた。道の途中では、若い人たちが地元野菜を販売する市を開いており、町民や観光客で賑わっている。大多喜城に近づくと、城跡の周辺は整備され、訪れる人々の顔には穏やかな笑みが広がっていた。

拓也が説明する。

「最近は町の資源や歴史を活かした観光が盛んでさ、首都圏からも訪れる人が増えているんだよ。若い人も少しずつ町に戻ってきてる。希望は、確かにあるんだ。」

その言葉を聞きながら、浪平は静かに頷いた。町が持つ美しさと、その美しさを引き出そうと努力する人々の姿に触れ、心に温かな光が差し込むのを感じた。

東京にいる間、彼はこの故郷を「何もない」と感じていた。しかし実際には、そこには穏やかな人々の生活があり、地域の歴史や自然資源を活かした新しい試みが芽生えていた。浪平はその現実を知り、自分がこれまでいかに浅い視野で町を見ていたかを改めて認識した。

その夜、実家の静かな部屋で、浪平はかすかな光が差し込む窓辺に座った。遠くで蛙の鳴く声が静かに響いている。その懐かしい音色を聴きながら、彼は深く思った。

――自分はまだ、この町のことを知らない。もっと深く知りたい。

東京の白い空の下では見えなかった、故郷という土地の静かな可能性が、彼の前で少しずつ輪郭を帯びてきていた。

浪平は静かな夜の中で心に誓った。この帰省を通じて、自分自身が町に対して何ができるのかをゆっくり探し出そう、と。

春の夜は柔らかく更けてゆき、大多喜の空に静かな星々が瞬き始めていた。その光は、浪平の心の奥にも小さな灯りをともしているかのようだった。