1章 (07) 川音が紡ぐ思い

季節はゆっくりと進み、市川三郷町は新緑が眩しい季節を迎えていた。町を流れる富士川の水面は、透き通った青空を映しながら静かに流れ、岸辺には新緑が輝いていた。その風景を眺めながら、みさとは昼休みに「和紙工房 ゆらぎ」の中庭で静かに弁当を広げていた。

最近、昼休みになると彼女は決まって川辺の木陰に座り、ぼんやりと川を眺めるようになった。和紙工房でのアルバイトにも慣れてきたが、彼女の胸の奥では、少しずつ新しい感情が芽生えていることに気づいていた。それは町の外に対する小さな好奇心だった。

弁当を食べ終える頃、ふと声をかけられた。

「みさと、ここにいたのか」

振り返ると、そこには兄の市川祐介が立っていた。兄は穏やかな性格で、地元の公務員として町のために働いていた。二人は昔から仲が良く、よくこうして何気ない話をする時間を大切にしていた。

「お兄ちゃん、今日は仕事は?」

「今日は役場の外回りでね、ちょっと一息入れに来たところだよ」

兄はそう言いながら、彼女の隣に腰掛けた。二人は川を眺めながら、しばらく無言の時間を過ごした。川の音と鳥のさえずりだけが、静かな空間を満たしている。

「みさと、この町はいいよな。静かで、自然も豊かで、人も優しい」

兄の言葉にみさとはゆっくり頷いた。

「そうだね。小さい頃から、いつも安心できる場所だった」

兄は川面を眺めながら、ぽつりと続けた。

「俺も、一度は外に出てみようと思ったけどさ、やっぱりこの町が一番だって思って、結局ここに残った。でも、みさとは違う気もするな」

兄の言葉に、みさとは少し驚いた。

「私、違うかな?」

「ああ、お前は小さい頃からいつも外に興味を持ってただろう?学校の図書室でもよく世界地図を広げて眺めてたじゃないか」

兄の言葉に、みさとの胸は小さく揺れた。確かに幼い頃は、世界のさまざまな場所に憧れていた。でも、それはいつしか心の奥底にしまい込まれてしまったようだった。

「でも、私は今この町が好きよ。ここにいて、とても幸せだと思ってる」

みさとは自分の気持ちを確かめるように答えた。兄は優しく笑って頷いた。

「それでいいんだよ。でも、もし外の世界に興味があるなら、一度ぐらい見てみてもいいと思うぞ。その上で、この町に戻ってきてもいいじゃないか」

その言葉が静かにみさとの胸に響いた。彼女は自分の心の奥底に、ずっとしまい込んでいた小さな夢を再び感じたような気がした。

午後の作業に戻ると、みさとは和紙を丁寧に折りながらも、兄との会話が頭から離れなかった。この町が大好きだという気持ちと、知らない世界を見たいという好奇心。その二つの感情が交差し、心を揺さぶっていた。

作業が終わり、工房を後にする頃には夕日が辺りを染め上げていた。富士川の岸辺に立ち、ゆったりと流れる水面を見つめながら、みさとは静かに自問した。

「この町は私のすべて。でも、外の世界を見て、自分がどう感じるのか知りたい……」

その問いは風に運ばれ、彼女の周りをそっと舞うように広がっていく。だが答えはまだ出ない。それでも、彼女はこの町を深く愛しながらも、外へのかすかな憧れを胸に抱き続ける自分を認めるしかなかった。

家に帰ると、食卓にはいつものように母が作った温かな料理が並んでいた。みさとは食卓を囲む家族の笑顔に包まれながら、自分の気持ちをもう一度確かめるように、静かに微笑んだ。

「今日も一日、お疲れさま」

父が優しく声をかける。家族と過ごす時間は、彼女にとって何よりも大切なものだった。

その夜、彼女は静かな部屋で日記を開き、小さな字で書き記した。

「今日、お兄ちゃんと話して、少しだけ心が動いた。この町は本当に好きだけれど、外の世界も知りたいという気持ちが自分の中にあることに、改めて気づいた。これから少しずつ、自分自身をもっと知りたい。」

その日記を閉じると、みさとは深い眠りに落ちた。彼女の心の中ではまだ、小さな揺らぎが生まれたばかりだった。

――それはいつか大きな波紋となり、彼女の人生を少しずつ変えていくことになるのだが、今はまだ、静かな水面のように穏やかな時間が流れていた。