1章 (09) 心の奥に眠るもの

市川三郷町は新緑が日ごとに色濃くなり、町の空気も次第に初夏の香りを帯びてきた。穏やかな昼下がり、みさとは「和紙工房 ゆらぎ」での作業を終え、自転車に乗って富士川沿いのいつもの道を走っていた。春の盛りを過ぎた川辺には青々とした草が生い茂り、爽やかな風がみさとの頬をなでていく。

今日は少し遠回りをして帰ることにした。自転車をゆっくりと走らせながら、みさとは改めて町の美しさに目を向けていた。町の中心部から少し離れた川の対岸には広大な果樹園が広がり、梨や桃の若葉が太陽を浴びて輝いている。その生命力溢れる光景に心が癒されるのを感じながら、彼女はペダルをゆっくりと漕ぎ続けた。

ふと、自転車を停めたのは、四尾連湖への道標を見つけたからだった。子供の頃から何度も訪れた場所だが、最近はなかなか足を運ぶことがなかった。思い立ったように自転車を降り、四尾連湖へと続く道を少しだけ歩いてみることにした。

森の中へ足を踏み入れると、涼やかな空気が彼女を迎え入れた。湖へ続く道は新緑に包まれ、鳥のさえずりや風が木々の葉を揺らす音が優しく響いている。少し歩くと視界が開け、鏡のように穏やかな湖面が目に飛び込んできた。湖はひっそりと静まり返り、まるで町の喧騒とは別世界だった。

湖畔のベンチに腰掛けると、みさとは静かに湖面を眺めながら深呼吸をした。自分が生まれ育った町に、こんなにも静かで神秘的な場所があることを、彼女は改めて感じていた。

「ここに来ると、本当に心が落ち着く……」

その時、背後から柔らかな足音が聞こえ、振り向くと兄の祐介が穏やかな笑顔で立っていた。

「みさと、ここに来ていたのか。珍しいな」

兄は驚いたように微笑みながら、みさとの隣に座った。

「なんだか急に懐かしくなって。お兄ちゃんこそ、なんでここに?」

「役場で観光案内のパンフレットを作ることになってさ、この辺りの写真を撮って回ってたんだよ」

そう言いながら祐介は首から提げていたカメラを軽く示した。二人は並んで静かな湖面を見つめ、しばらくの間沈黙を共有した。穏やかな湖面は風に揺られ、まるで自分たちの心を映し出すように微かな波紋を描いていた。

「みさとはさ、何かこの町でやってみたいことはないのか?」

兄の問いに、みさとは少し戸惑いを感じた。自分自身でもはっきりとはわからない想いが胸の奥で静かに渦巻いていたからだ。

「正直、まだはっきりとはわからない。でも……最近、町の外にも興味があることに気づいたの。この町は大好きだし、ずっとここで暮らしていたい気持ちもあるけど、どこかで知らない世界を見てみたいって思いもあるの」

彼女の正直な言葉に、兄は静かに頷いた。

「それでいいと思うよ。実は俺も昔、外の世界に憧れた時期があった。でも結局、この町が好きでここに残ったけどな」

兄の言葉は静かで温かかった。みさとは小さく微笑み、湖面に視線を戻した。湖面に映る自分の顔は、揺らぎながらもどこか穏やかで、少しだけ大人びて見えた。

「お兄ちゃんは、外に出てみたい気持ちはもうないの?」

祐介は軽く微笑んで首を振った。

「もうないよ。でも、みさとはまだまだこれからだ。外に出て自分を試してみてもいいし、ずっとここで暮らすのもいい。どちらでも、みさとが決めることだ」

兄の言葉に、彼女の胸は温かなもので満たされた。答えはまだ出ないが、焦る必要はないと感じられた。

やがて陽が傾き始め、湖畔には夕暮れの静寂が訪れた。二人は並んで立ち上がり、湖畔を後にした。

帰り道、みさとはふと兄に告げた。

「今日、お兄ちゃんと話せてよかった。少しだけ自分の心が整理できた気がする」

兄は優しく頷き、

「いつでも話を聞くよ」

と静かに答えた。

みさとは自転車に乗り家路につきながら、自分の中でゆっくりと動き始めた小さな変化を感じていた。これから自分がどんな道を選ぶのかはわからないけれど、この町がいつも自分を見守ってくれていることだけは、確かなことだと感じていた。

夜、静かな自室で日記を開き、彼女は一言だけ記した。

『心の奥に眠っていた何かが、今日少しだけ目を覚ました気がする』

そして、窓の外の星空を見上げながら、静かに眠りについた。