静かな川辺での対話を終えた後、勝道はゆっくりと大谷川の道を戻り始めた。朝日に温められた空気が心地よく肌を撫でる。水辺の草が風に揺れ、微かな水音はまだ彼の胸の中で静かに響いている。彼は先ほど交わした地元の男性の言葉を、繰り返し心に刻んでいた。
発電所に戻ると、主任の山本が事務所で待っていた。会議室に招かれ、二人だけの静かな話し合いが始まった。
山本は落ち着いた声で口を開いた。
「昨日の説明会、地域の皆さんの思いを君も直に感じただろう。正直、私自身も色々なことを考えさせられた」
主任はしばらく黙り、窓から遠くを眺めていた。静かな山々が柔らかな光を浴びている。山本は静かに話を続けた。
「私はね、この仕事を長年やってきて、技術は地域のためにあるべきだと信じている。でも、それを現実にするにはいつも大きな困難が伴う。地域に根差す伝統や文化、そこに暮らす人々の感情や歴史。それらを決して軽んじてはいけないと痛感させられるんだ」
勝道は深く頷いた。主任の言葉は、朝に交わした老人との対話と重なり、ますます彼の心に響いた。
「君にはまだ若いからこそ、しっかりと自分の目で地域を見て、自分の耳で人々の声を聞いてほしい。技術者は時に孤独な仕事だ。でも、だからこそ人との絆や信頼が大切になる」
山本は優しく微笑みながら、勝道の肩を軽く叩いた。
「そして、君自身が地域の一員として、住民の方々と心を通わせてほしい。それこそが細尾電力が掲げる技術者の本当の姿なんだ」
主任の言葉は力強く、勝道の胸に深く沁み込んだ。技術者としての覚悟と責任を改めて感じさせると同時に、彼が心の中で抱えてきた迷いを穏やかに和らげてくれた。
午後、勝道は自室の机に向かっていた。ふと、昨晩、稲葉教授から渡された一枚の名刺を手に取り、それを静かに見つめた。名刺には、「東京帝都大学・赤沢浪平」と記されていた。勝道はその名前を静かに心の中で繰り返した。
彼は、稲葉教授が語っていた、赤沢浪平という同世代の若い技術者の存在を思い出していた。同じように地域との葛藤を抱え、天然ガス資源の開発という新しいエネルギー技術を模索している人物だ。
その名前を見つめているうちに、勝道は胸に湧き上がってくる不思議な感覚に気づいた。それは孤独感の解消だけではなく、同じように地域社会や自然と真摯に向き合おうとする若者の存在への共感であり、未来に向けたささやかな希望だった。
夕暮れが山々を黄金色に染め上げる頃、勝道は思い切って稲葉教授に連絡を取った。電話の向こうの教授は穏やかな声で彼の話を聞き、すぐに快く承諾した。
「赤沢君も君と話したいと言っていたよ。彼も同じように悩みながら進んでいるからね。お互いにとって、きっといい出会いになるだろう」
教授の声には温かさが滲んでいた。その瞬間、勝道の胸に新たな道がゆっくりと見え始めた気がした。
電話を切った後、勝道は窓際に立ち、夕陽が落ちていくのを眺めた。
黄金色に染まった山並みや緩やかな川の流れが、目に映るすべてがいままで以上に愛おしく思えた。
主任の言葉、老人の語った川との暮らし、稲葉教授の穏やかな励まし――それらのすべてが、彼の胸の奥で一つの大きな流れとなり、技術者としての未来への道筋を静かに示しているようだった。
(僕は、この土地に暮らす人々や自然と心からの対話を続けていく。技術は地域や自然の敵ではなく、調和することができるはずだ――)
その夜、ベッドに横たわった勝道の心は、不安や迷いよりも、静かな決意と期待に満ちていた。同じ時代を生き、同じ課題に取り組む赤沢浪平という青年との出会いが、どんな未来につながっていくのか。そのことを考えると、不思議なほど穏やかで優しい気持ちになれた。
夜が更けるにつれて、外では川の流れがかすかに聞こえた。その音はいつまでも穏やかで、絶え間なく続く命の鼓動のようでもあった。
勝道は、目を閉じながら静かに微笑んだ。自分はもう一人ではないという安堵と、技術者としての新たな道を歩んでいく喜びが胸に広がっていった。
心地よい川の音を聴きながら、彼はゆっくりと眠りについた。
それはまるで、明日という新たな日々に向かう希望に満ちた旅の始まりのようであった。