5月の市川三郷町は、新緑の美しさに包まれていた。町全体が生命力に満ち溢れ、山々の緑は日に日に濃さを増していく。川沿いを吹き抜ける風はさわやかで、富士川の穏やかな流れは、いつものようにみさとの心を静めてくれた。
この日、みさとはいつもより早めに「和紙工房 ゆらぎ」に着いた。朝の工房はまだ誰もおらず、ひんやりとした空気が漂っている。彼女は作業台を整え、今日使う和紙の材料を揃えながら、自分の心が最近妙に落ち着かないことに気づいていた。
そこへ佐藤和子が到着した。
「おはよう、みさとちゃん。今日は随分早いのね」
佐藤の穏やかな笑顔に、みさとは小さく微笑み返した。
「おはようございます。なんだか目が早く覚めてしまって……」
「それはきっと、この季節のせいね。5月は、新しいことを始めたくなる季節だから」
佐藤の何気ない言葉が、みさとの胸に小さく響いた。確かに最近、自分の中で何かが動き始めているのを感じていた。それはまだ漠然とした感覚で、明確に言葉にはできない。けれど、確かに彼女の心を揺さぶっていた。
その日の作業は、町内の小学校で行う「和紙づくり体験教室」の準備だった。子どもたちに町の伝統や文化を伝える大切な行事だ。みさとは材料や道具を丁寧に整えながら、自分も子供の頃にこの教室に参加した記憶を思い出していた。
「あの時は本当に楽しかったな……」
子どもの頃、自分の手で作った和紙の感触や、それを使って描いた絵のことを鮮明に覚えている。町の文化に触れることが、自分の中に根を張っているように感じられた。
午後、みさとは佐藤と共に小学校を訪れた。元気な子どもたちが教室いっぱいに集まり、期待に満ちた目を輝かせている。
「みなさん、今日はこの町の伝統の和紙を作ってみましょう!」
佐藤の声に、子どもたちの歓声が教室を包んだ。みさとは子どもたちが一生懸命に和紙を漉く姿を見ながら、胸が熱くなるのを感じていた。
その帰り道、佐藤が静かに話しかけてきた。
「みさとちゃん、子どもたち、とっても喜んでいたわね。伝統を伝えるって、こういうことなのかもしれないわね」
「はい。私も子どもたちの笑顔を見ていたら、なんだか胸がいっぱいになりました」
佐藤は優しくうなずき、
「みさとちゃん、あなたがいてくれて本当に助かるわ。この町の伝統を繋ぐのは、若い人たちなのだから」
その言葉を聞いて、みさとは胸の奥に温かな気持ちと同時に、小さな戸惑いを感じていた。自分がこの町の伝統を守る役目を担うことができるだろうか。そしてその役目を果たすことが、本当に自分の望む道なのか――。
夕暮れの帰り道、自転車で富士川の土手を走りながら、みさとは立ち止まり、川の流れを眺めた。水面には夕陽が優しく反射していた。その穏やかな光景を見つめながら、彼女は心の奥に秘めていた想いを初めてはっきりと認めた。
「私は、この町が好き。でも……」
彼女の声は川音にかき消されるほど小さかった。
「でも、本当にそれだけでいいのかな?」
静かな問いかけが心の中で響き、彼女を戸惑わせる。町の穏やかな生活や家族の温もりを手放すことは考えられない。それでも、心の奥底にある「新しい世界を見てみたい」という気持ちは無視できないほど強くなっていた。
その夜、食卓でいつものように家族と夕食を囲んだが、みさとはどこか落ち着かなかった。その様子に兄の祐介が気づいたのか、食後にそっと声をかけてきた。
「みさと、何かあったか?」
「ううん、なんでもない……」
みさとは小さく笑ってごまかしたが、兄は優しく言った。
「迷った時は、焦らずゆっくり考えればいい。お前の答えはきっと見つかる」
その夜、みさとは自室で日記帳を開いた。白いページを前にしばらく悩んだ後、ゆっくりと書き始めた。
『今日、自分の中に新しい気持ちが芽生えていることに気づいた。町も家族も大好きだけど、外の世界にも興味がある。どちらを選ぶのか、まだ分からないけれど、自分自身とちゃんと向き合っていこうと思う。』
日記帳を閉じると、彼女の心は少しだけ軽くなったようだった。その夜、みさとは静かな眠りにつきながら、自分の中で新たな風が吹き始めていることを感じていた。
それは小さな変化だったが、彼女の人生にとって確かな一歩となる予感をはらんでいた。