1章 (04) 春風と紙の温もり

市川三郷町に穏やかな春の朝が訪れた。みさとは朝食を終えると、いつものように地元の小さな紙製品会社「和紙工房 ゆらぎ」へと自転車を走らせた。彼女がアルバイトを始めて一年近くになるその会社は、市川三郷町で古くから受け継がれてきた和紙づくりの伝統を守りながら、暮らしの中で使えるさまざまな和紙製品を制作している。みさとにとってここは単なる職場ではなく、自分の町の文化を肌で感じ、学べる貴重な場所でもあった。

「おはようございます!」

工房に入ると、淡い和紙の香りが優しく漂い、みさとの心を落ち着かせてくれた。工房の奥では、職人たちが丁寧な手仕事で和紙を漉いており、その熟練した手さばきを見るたびに、彼女は町の文化の深さを感じずにはいられなかった。

「おはよう、みさとちゃん。今日もよろしくね」

そう声をかけてきたのは、工房を営む佐藤和子だった。佐藤はこの町で生まれ育った女性で、穏やかだが芯の通った人物だった。佐藤のように町の文化を守りつつ、新たな価値を生み出していく人がいるからこそ、この町が輝いているのだと、みさとは常々感じていた。

「今日の仕事は、特注品の便箋の包装と発送準備をお願いするわ。県外のお客様から注文が入ったのよ」

「はい、分かりました」

みさとは嬉しそうに頷き、作業に取り掛かった。作業台の上には、美しく丁寧に作られた和紙製の便箋が積まれていた。柔らかな手触りと、微妙に異なる一枚一枚の色合いは、すべて職人が心を込めて手作りした証だった。

作業を進めながら、彼女はふと和紙の手触りに心が和らぐのを感じた。薄く繊細なのに力強く、伝統的でありながらモダンでもある和紙には、この町の人々の生き方が表れている気がした。

昼休憩の時間になると、みさとは工房の裏にある小さな庭で弁当を開いた。そこは富士川を見下ろす小さな高台になっていて、柔らかな春風が心地よく頬を撫でた。風に揺れる桜の花びらが舞い降り、彼女の膝の上にそっと落ちてくる。

「この町の春は、本当に特別だな……」

独り言のように呟くと、背後から静かな足音が聞こえてきた。振り返ると、佐藤が微笑みながら歩いてきた。

「みさとちゃん、ここは気持ちいいでしょう?」

「はい、本当に気持ちいいです。和紙の手触りも、春風の柔らかさも、似ている気がしますね」

佐藤は頷きながら、みさとの横に座った。二人は静かに川を見下ろしながら、小さく交わされた会話の中に心地よさを感じていた。

「私も若い頃は、町の外に出ていろんな場所を見たわ。でもね、結局ここに戻ってきちゃった。この町の空気や人が、一番自分らしい気がして」

佐藤の静かな言葉が、みさとの胸に響いた。彼女はまだ外の世界をよく知らない。自分もいつか、この町を離れて世界を見る日が来るのだろうか。そしてその時、自分はどのような選択をするのだろうか。

「町を出てみたい気持ちと、ずっとここにいたい気持ち、両方あるんです。でも、それが自分でもよく分からなくて」

みさとの正直な言葉に、佐藤は温かく微笑んだ。

「焦らなくていいのよ、みさとちゃん。どちらの道を選んでも、きっとこの町はあなたの帰る場所になると思うから」

佐藤の言葉にみさとは深く安堵し、小さく頷いた。穏やかな風が頬を撫で、遠くの川面は春の光に輝いている。その風景の中で、みさとは自分自身と対話していることに気づいた。

午後、仕事を再開したみさとは、いつも以上に丁寧に和紙製品を包装しながら、一つの決意を胸に秘めていた。

「私はまだ、この町のことを知らなすぎる。もっと知りたい。もっと感じたい。そして、いつか自分の心が向かう場所をはっきりと決めたい」

夕暮れ時、作業を終えた彼女は自転車に乗り、ゆっくりと帰路についた。富士川の堤防沿いを走りながら、川面に映る夕焼けの美しさに目を奪われた。

「やっぱり、この町が好き」

みさとはそう小さく呟きながらも、心のどこかに眠っている外の世界への憧れを否定できずにいた。それでも、今日という日は、穏やかな春風と紙の温もりとともに、確かに彼女の心に深く刻まれたのだった。