市川三郷町の春は深まり、町は生命の息吹に満ちていた。川沿いの桜並木が散り始め、花びらが舞う道を、みさとはいつものように自転車を走らせていた。今日も「和紙工房 ゆらぎ」でのアルバイトの日だ。
工房に着くと、佐藤和子がいつもの柔らかな笑顔で彼女を迎えてくれた。
「みさとちゃん、おはよう。今日は忙しくなるわよ、頑張りましょうね。」
「はい、頑張ります!」
和子の笑顔に励まされながら、みさとは作業に取り掛かった。今日は地元小学校で使われる特別な和紙のノートを仕上げる日だ。工房は朝から和紙の香りと、紙を折る音で満ちていた。
昼休憩になると、みさとは工房の裏手に出て、小さなベンチで昼食をとった。澄んだ青空の下、手作りのお弁当を頬張りながら、ふと工房の中庭を見回した。そこには、職人が長年使い込んだ道具や、天日干しされた和紙が並び、どこか懐かしく温かな空気が漂っていた。
「みさとちゃん、お昼ご飯、美味しそうね。」
声の方を見ると、佐藤和子が柔らかな笑顔で近づいてきた。みさとは笑顔で頷いた。
「お母さんが作ってくれたおにぎりなんです。梅干しは自家製で。」
「いいわねぇ。家族の味は一番よね。」
佐藤は穏やかに頷き、遠い目をして続けた。
「私も、若い頃に一度この町を離れたことがあったけれど、結局戻ってきたのは、この町の空気と家族の温もりが忘れられなかったからなの。」
みさとは、ふとその言葉に心が動いた。自分はこの町を離れることなんてあるのだろうか、と一瞬考えたが、すぐにその想いを胸の奥にしまい込み、静かに笑った。
午後になり作業を再開すると、和紙の感触を指先に感じながら、みさとは子供の頃の思い出をぼんやりと思い返していた。かつて兄と一緒に和紙を使って手作りの絵本を作ったこと。母に褒められて嬉しかったこと。そんなささやかな記憶が心を穏やかに満たしていく。
夕方、作業が終わり、自転車で帰路についた彼女は、富士川の橋の上でふと立ち止まった。川面に映る夕焼けが美しく輝き、どこまでも静かなその光景に、彼女の胸は温かい幸福感で満たされた。
家に帰ると、家族が笑顔で彼女を迎えた。夕食の時間、母が地元で採れた新鮮な野菜を使った料理を並べると、食卓にはいつものように温かな笑顔が溢れた。兄が今日の出来事を話す横顔を眺めながら、みさとは家族の大切さを改めて感じていた。
その夜、彼女は静かな部屋で日記を開いた。小さな字で今日の出来事を綴りながら、心の奥にしまい込んだ外への憧れと、今ここにある家族や町への深い愛情をそっと確かめた。
「いつか、この町の素敵さをもっとたくさんの人に伝えたい。」
彼女はそっとページを閉じ、穏やかな眠りについた。
この日もまた、小さな町での静かな一日が、彼女の心に深く刻まれていたのだった。