5月に入り、市川三郷町は春から初夏への緩やかな移り変わりを迎えていた。山々はますます緑を深め、富士川を吹き抜ける風も心地よさを増している。朝、窓を開けると新緑の香りを含んだ爽やかな空気がみさとの頬を撫で、季節の巡りを実感させた。
今日は町の中心にある小さな公園で開催される「みさとふれあいマーケット」の日だった。このマーケットは毎月定期的に開かれ、地元の農家や工房がそれぞれの自慢の品を並べて販売するイベントである。「和紙工房 ゆらぎ」も、特別な便箋や季節限定の紙小物を出店する予定で、みさとも朝からその準備に忙しくしていた。
「みさとちゃん、こちらの商品をお願いできる?」
佐藤和子が穏やかに声をかけ、彼女は笑顔で頷いた。
「もちろんです!」
マーケット会場に着くと、すでに多くの人が集まり始めていた。新鮮な地元の野菜、手作りジャムやパン、地元の木材で作った小物などが並び、町の人々が楽しそうに談笑しながら商品を手に取っている。その様子を見ているだけで、みさとは心が和むのを感じた。
「おはよう、みさとちゃん!」
ふいに明るい声が聞こえ、振り返ると幼馴染の美紀が立っていた。美紀は小学校からの親友で、今は町内の保育園で働いている。いつも元気で明るい美紀の姿を見ると、みさとは自然と笑顔になった。
「美紀、おはよう。今日はマーケットに来てくれたんだね」
「うん。保育園の子どもたちと一緒に楽しみに来たのよ。みさとのところの和紙、今年も綺麗だね」
美紀は商品を手に取りながら言った。その言葉に、みさとは嬉しさを隠せない。
マーケットが盛況のうちに進むなか、昼近くになってふと、兄の祐介が姿を現した。
「お、みさと、頑張ってるな」
祐介は優しい笑顔を浮かべて店先に近づいてきた。町役場に勤務する彼は、このイベントの運営サポートも兼ねて足を運んでいた。
「お兄ちゃん、来てくれたんだ!」
みさとは笑顔で迎えた。祐介は商品を手に取りながら、
「和紙って、本当に温かみがあるよな。お前がこの工房で働き始めてから、俺も和紙の良さがよく分かるようになったよ」
その言葉に、みさとは小さく微笑んだ。自分が携わっているものを家族に理解してもらえることが、何より嬉しかった。
昼休憩の合間に、みさとは祐介や美紀と一緒に地元のカフェのブースで軽食をとった。爽やかな風に吹かれながら、三人は昔話に花を咲かせた。
「昔は、こんなに素敵なマーケットがあるなんて知らなかったな」と祐介が言った。
「そうだね。大人になって初めて、この町にはまだ知らないことがたくさんあるって気づいたの」と美紀も頷く。
「うん、私もそう思う。町のこと、もっともっと知りたいな」
みさとの言葉に、祐介と美紀は笑顔で頷いた。
午後のマーケットも順調に進み、夕方になる頃にはほとんどの商品が売り切れた。みさとは佐藤和子と一緒に後片付けをしながら、一日を振り返った。
「今日は本当に楽しかったわね、みさとちゃん。お疲れさま」
佐藤が優しく微笑んだ。
「はい、町の皆さんとたくさん触れ合えて、ますますこの町が好きになりました」
みさとは素直な気持ちを口にした。その言葉を聞き、佐藤はそっと言葉を添えた。
「町を深く知れば知るほど、他の世界を見てみたいという気持ちも出てくるものよ。それは自然なこと。だから焦らず、自分の心の声を大切にね」
その言葉がみさとの胸に深く沁みた。夕暮れの中、工房への帰り道で富士川を眺めながら、みさとは自分自身の中に新たな確かな気持ちが芽生え始めているのを感じていた。
「私はきっと、この町も外の世界も、両方を知りたいんだ」
そう呟いた彼女の言葉は、春の風に乗って静かに町の空気に溶けていったのだった。
――その小さな自覚はやがて大きな決断へと彼女を導いていくが、今はまだ、その穏やかな予兆に過ぎなかった。