新緑の香りを含んだ心地よい風が、市川三郷町に流れていた。4月も終わりを告げ、町はすっかり春から初夏へと季節を進めているようだった。富士川沿いの桜並木はすっかり緑色の葉を茂らせ、川辺を散歩する人々はその新緑のトンネルを楽しみながら歩いていた。
みさとはこの日、午前の短大の講義を終えると、友人の彩花と共に町の中心にある小さなカフェでお茶をしていた。この店は最近できたばかりで、地元産の果物を使ったケーキやドリンクが評判だった。
「みさと、最近どう?もう短大も2年生だし、就活とか考えてる?」
彩花が何気なく尋ねてきた。みさとは少し考えながら答える。
「うーん、まだはっきりとはね。正直、あまり具体的にはイメージが湧かないの。でも、この町でできることを考えてみたいとは思ってるよ。」
彩花は小さく頷き、少し遠くを見るような目をした。
「私も似たような感じ。でも、最近少し考えるんだよね。私たち、ずっとここで暮らすのかなって。ここはすごくいい町だけど、外の世界を見たいって気持ちもあるじゃない?」
みさとは少し驚きながらも、同じような想いを持っている彩花に親近感を覚えた。
「そうだね。私も最近、兄と話していて、似たようなことを考えてた。町の外に何があるのか、ちょっと気になるよね。」
二人は静かに微笑み合い、会話はしばらく途切れた。窓の外を眺めると、富士川沿いにサイクリングを楽しむ家族連れの姿が見える。自転車で気持ちよさそうに風を切るその姿に、みさとはふと幼い頃の記憶を思い出していた。
子どもの頃、自転車を初めて買ってもらった日。嬉しくて何度も町の中を走り回り、川沿いの小道で転んだこと。父や兄が優しく手を差し伸べてくれた日のこと。その記憶は色あせることなく、今も鮮やかに胸に残っている。
「私ね、この町が好きだけど、外に出たいって気持ちも大切にしたいんだ。でも、まだ答えは出ないかな。」
みさとは素直にそう口にした。彩花は優しく頷いた。
「それでいいんじゃないかな。まだ時間もあるし、ゆっくり決めればいいと思うよ。」
その後、みさとは彩花と別れ、再び自転車に乗って「和紙工房 ゆらぎ」に向かった。アルバイトの日ではなかったが、少し相談したいことがあったのだ。工房に着くと、佐藤和子がいつものように温かく迎えてくれた。
「みさとちゃん、今日はお休みの日なのにどうしたの?」
「ちょっとだけ相談したいことがあって……」
みさとは小さく微笑み、和子と一緒に工房の縁側に座った。工房の前には、丁寧に漉かれた和紙が天日干しされ、風に揺れている。その様子を見つめながら、みさとは口を開いた。
「私、そろそろ就職のこととか考えなくちゃいけなくて。でも、まだこの町で働きたい気持ちと、外の世界も知りたい気持ちがあるんです。」
和子は静かに頷きながら言葉を選んだ。
「みさとちゃん、迷うのはいいことよ。この町の良さを知り尽くしているからこそ、外の世界を知りたいと思うのは自然なこと。でも、外に出て初めてこの町の良さが分かることだってある。急ぐ必要はないけど、私はみさとちゃんが一度くらい外の世界を見るのも悪くないと思う。」
みさとは和子の言葉を聞きながら、胸の奥にある迷いが少し整理されるような気がした。
「外を見て、またここに戻ってくることもできますか?」
和子は穏やかに微笑みながら頷いた。
「もちろんよ。外を知ってこそ、本当に自分の生まれ育った場所が愛おしくなるのかもしれないからね。」
その言葉に、みさとの心はふっと軽くなったように感じられた。
夕暮れ時、帰宅したみさとは夕食の支度を手伝いながら、母に今日の出来事を話した。母は静かに頷き、優しく言った。
「どんな道を選んでも、みさとが決めた道ならきっと正しいよ。私たちはいつだってあなたを応援するから。」
その言葉が、みさとの心に深く響いた。夕食の食卓には家族の笑い声があふれ、父と兄の話す穏やかな声が部屋に響いた。
その夜、彼女は日記帳を開き、小さな字で丁寧に書き記した。
『外の世界を知ってみたい。でも、この町のことももっと深く知りたい。まだ迷いはあるけど、少しずつ自分が本当に進みたい道を見つけられる気がする』
窓の外には静かな星空が広がっていた。川のせせらぎが微かに聞こえ、その音が優しく彼女の心を包んでいた。
この日もまた、市川三郷町の静かな時間が、彼女の心の中で穏やかに流れていたのだった。