1章 (03) 故郷という遠き異郷

東京の空は、夕刻になるとゆっくりと淡い灰色に染まっていく。その空気には何か、喪失にも似た感傷が静かに漂っていた。

赤沢浪平は、部屋の片隅にある小さな机の前でパソコンの画面をじっと見つめていた。画面には彼の故郷――千葉県大多喜町についてのページが表示されている。そこには、彼がかつて目を逸らしてきた町の現実が冷静に記述されていた。

大多喜町は、水資源と地下から湧き出す天然ガス、さらにはヨウ素と呼ばれる世界的に希少な元素を産出する特異な土地だった。だが、浪平は幼いころからそれらに価値を見出さず、「何もない場所」という浅薄な考えでその土地を出た。いま彼は、東京帝都大学というエリートの象徴的な空間の中で、自分自身の浅はかさを痛感していた。

――自分は、どれだけ無知だったのだろう。

胸の奥が鈍く痛む。これまでの人生、彼は都会的な成功、華やかな名声といった、漠然とした幻想に囚われてきた。そのため、自分自身が足を置いてきた土地の意味を理解しようとはしなかった。今、初めて彼は、自分が出発点としていたものを知ろうとしていた。

翌日、浪平は大学の図書館へ向かった。書架の列は整然と並び、時間が静かに積み重なったような荘厳さを放っている。彼は静かにその中を歩きながら、故郷の資源に関する古い文献や資料を探した。

「あれ、赤沢君じゃないか?」

穏やかな声に振り返ると、稲葉教授が静かに立っていた。教授は、学生を温かく包み込むような優しい目をしている。

「あ、教授。こんにちは……。」

稲葉教授は穏やかな微笑みを浮かべて近づき、静かに問いかけた。

「君が図書館にいるのは珍しいな。何を探しているんだい?」

浪平は少し躊躇ったが、静かに語りだした。

「故郷、大多喜町のことを調べているんです。実は天然ガスやヨウ素といった資源があることを最近知って……。少し気になって。」

教授の顔に静かな喜びが浮かぶ。

「それはとてもいいことだね。大多喜町は実に興味深い場所だよ。天然ガスやヨウ素を産出する地域というのは日本でも珍しい。エネルギー政策や地域振興という観点からも、非常に重要な場所だ。」

教授は書棚から何冊かの資料を取り出して、浪平に手渡した。

「これは地域資源や日本のエネルギー政策を論じたものだ。ゆっくり読んでみるといい。君の知らなかった故郷の顔が見えてくるかもしれないよ。」

浪平はその資料を静かに受け取った。胸に不思議な感覚が広がっている。自分がこれまで気にも留めなかった場所が、今は未知の宝物を秘めているように思えた。

講義の後、教室を出ようとすると、同級生の一人が意外にも声をかけてきた。

「赤沢、最近図書館によくいるみたいだな。何か面白い研究でも始めたのか?」

浪平は戸惑いながらも、故郷の話をすると、同級生の顔がぱっと明るくなった。

「大多喜か。あそこは地下資源が面白いんだよな。俺も地域資源とか興味あるんだ。今度詳しく聞かせてくれよ。」

その何気ない言葉が、浪平にはなぜか深く響いた。これまで感じてきた孤独や疎外感が、少しずつ溶けていくようだった。孤独という殻に閉じこもっていたのは、自分自身のせいでもあったのかもしれない――そう初めて気づいた。

その晩、浪平は自室に戻り、久しぶりに故郷にいる両親に電話をかけた。静かな通話の向こう側で、母の穏やかな声が町の近況を伝えてくれた。

「町は静かなものよ。でも、やっぱり若い人が減ってね。せっかく資源があるのに、うまく使えていないのが現実なの。」

父が静かに続けた。

「大多喜はもっと可能性のある場所なんだが、みんな気づいていない。まあ、そういう町は多いのかもしれんがな……。」

両親の言葉は、浪平の胸を静かに打った。これまで逃げるように見ないふりをしていた現実が、今は痛いほどに彼を捉えている。

電話を切った後、浪平は静かにベッドの端に座った。窓の外には東京の夜景が広がっていたが、今の彼にはその景色は無意味なものに思えた。彼が見るべきものは都会の華やかな明かりではなく、自分が生まれ育った土地の暗がりの中にこそあるような気がした。

「本当に、自分がやるべきことは何なのだろう……。」

浪平は静かに呟いた。その問いに対する答えはまだ明確ではないが、自分が今学んでいる電気という分野で何か故郷に役立つことができるのではないかという、漠然とした希望が芽生えていた。

東京という見知らぬ大都市の中で、浪平は初めて、自分が本当に属している場所、すなわち故郷という遠き異郷の価値に気づき始めていた。

窓の外では淡い星空が静かに広がっている。その星の輝きの下で、赤沢浪平の人生が、深い静けさを伴いながら、新たな一歩を踏み出そうとしていた。