1章 (04) 新たな風

季節はゆっくりと夏の終わりを迎えつつあった。
細尾勝道は、その日、細尾水力発電所の制御室で主任の山本と作業を終え、点検結果を静かに記録していた。施設の内部は静かで、遠くからは発電機の回転するかすかな音が低く響いている。

作業が終わり、椅子に腰を下ろしてホッと息を吐くと、主任が何かを思い出したように勝道を見た。

「そういえば細尾君、君に新しい仕事が入ったぞ」

「新しい仕事ですか?」

主任は微笑み、軽く頷いて言葉を続けた。

「大谷川発電所で、新しいプロジェクトが動き出すんだ。その件で地域説明会が開かれる。君にもぜひ参加してほしいと、本社から話が来ている」

「大谷川発電所の、新しいプロジェクト?」

勝道は聞き慣れない言葉に戸惑いながら、山本の穏やかな表情を見返した。

「そうだ。これまでの水力だけじゃない。地熱や天然ガスとの複合発電を検討するそうだ。大谷川流域に地熱の可能性が見つかって、東京帝都大学と共同で調査を進めているらしい。その説明会がある」

主任の言葉を聞いて、勝道は心の奥がざわめくのを感じた。地熱や天然ガスといった未知の技術に触れることに対して、好奇心と同時に、小さな不安が芽生えているのを感じたからだ。

主任はそんな勝道の表情を読み取ったのか、小さく笑みを浮かべた。

「分かるよ。俺も最初はそうだった。だけどな、これからの時代、私たちは新しいエネルギーの可能性を真剣に考えなければいけないんだ。技術が変われば、地域の暮らしも変わる。君は若いが優秀だし、何より柔軟だ。君にとって、必ず良い経験になるはずだ」

主任の言葉に励まされながらも、勝道はまだ自分の中の戸惑いを整理しきれていなかった。

翌日、勝道は大谷川発電所に向かうことになった。
まだ薄暗い早朝、主任の運転する車は静かな町並みを抜けて山道を走り出した。

窓を開けると、朝のひんやりした空気が車内に流れ込み、勝道の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
山々は夏の名残を惜しむように緑を濃くしており、木々の間を縫うように走る車のタイヤ音だけが響いている。

「大谷川発電所は初めてか?」

「ええ。名前は知っていますが、実際に行くのは今日が初めてです」

「そうか。昔から静かな場所だが、地元の人たちにとっては特別な川だ。流れが美しくて、地域の誇りでもある。だからこそ、新しい技術を入れることに慎重な人も多い。今日はそういう話がたくさん出ると思うよ」

勝道はその言葉を噛みしめるように黙って頷いた。

車はやがて森を抜け、大谷川の流れが見えてきた。澄み渡った水が静かに流れ、その表面には朝陽がきらきらと反射している。川のそばには小さな発電所が控えめに佇んでおり、自然の景色を壊さないように注意深く造られていた。

「ここが大谷川発電所だ」

主任が静かに車を停めると、勝道はゆっくりと車を降りた。
草木の匂い、川のせせらぎ、そして山々の静けさ――全てが穏やかで、自然との調和を感じさせる場所だった。勝道はその美しい風景を眺めながら、自分がこれから経験するかもしれない「変化」を意識し、再び小さな不安を感じた。

主任がそっと肩に手を置き、優しく声をかけた。

「変わることには勇気がいる。でも変化を恐れすぎてもいけない。大切なのは、技術が地域の未来を守るためにあるということだ」

勝道は静かに頷いたが、心の中ではまだ迷いを抱えていた。
それは、自分自身がまだ経験したことのない「境界線」を超えることへの不安だった。

説明会は、明日の午後に行われる予定だった。
勝道はその晩、発電所近くの宿泊施設で一晩を過ごすことになった。部屋からは大谷川が静かに流れる音が聞こえている。窓辺に立ち、川を見下ろしながら、彼は改めて自分自身に問いかけていた。

(新しい技術を取り入れることで、この美しい川や地域の暮らしが変わってしまうかもしれない。自分たちは、正しい道を選べるのだろうか――)

その問いに対する答えを見つけられないまま、彼は静かな夜の中で、明日の説明会のことを想い、ゆっくりと目を閉じた。

この夜の静けさが、新たな風を連れてくることを予感しながら。