1章 (05) 宿り木のような夜

静かな黄昏が大多喜町を包み始めた頃、浪平は篠原拓也に勧められた宿、『ロヴァン』に向かって歩いていた。ゆるやかな坂道の先に佇むその宿は、柔らかな光を灯したガラス窓を静かに連ね、穏やかな安堵を放っている。かつて自分が知っていた町の中に、このような洒脱な場所が存在していることが、浪平にはどこか不思議で、それでいて嬉しかった。

宿の玄関を開けると、木と土の香りがふわりと漂った。目に映る光景は都会的な洗練さと田舎の素朴さがほどよく融合し、落ち着きのある温かさを醸している。

「ようこそお越しくださいました。」

柔らかな声が聞こえ、浪平が振り向くと、宿のスタッフが穏やかな笑顔で迎えてくれた。その笑顔に、どこか懐かしさを感じ、浪平の胸に緊張がほどけてゆくのが分かった。

この宿とレストランは古民家や蔵をリノベーションしており、案内された部屋はシンプルだが洗練された蔵の方だった。音楽を聞きながら浪平は静かに呼吸を整えた。かつての故郷であることを忘れてしまいそうなほど、見知らぬ新鮮さに満ちていた。

夕食の時間となり、浪平は宿の一階にあるダイニングへ向かった。ダイニングの窓は広く、そこからは町を囲む山々が夕闇の中に静かに浮かんでいる。柔らかな照明の下には、地元の食材を使った料理が、まるで芸術品のように丁寧に並べられていた。

「今日のお料理は、すべて地元で採れた新鮮な食材を使っています。大多喜の豊かな自然を味わっていただければと思います。」

スタッフの説明を聞きながら、浪平は目の前に並べられた美しい料理に視線を落とした。鮮やかな地野菜のサラダ、大多喜産のタケノコを用いた料理、そして天然ガスの火で炊き上げられた米が並ぶ。口に運ぶたび、舌だけでなく心までもが静かに満たされていくのを感じた。

「いかがですか?」

浪平が味わっていると、宿のオーナーと思しき男性が穏やかな表情で声をかけてきた。彼は、柔らかな眼差しと物腰から、地元を愛する者の静かな誇りを滲ませていた。

「美味しいです。これが全部、大多喜の食材なんですか?」

浪平の問いに、男性は静かに頷いた。

「はい。この宿を通じて、この町がどれほど豊かで可能性に満ちているかを伝えたいんです。」

オーナーは静かな笑顔を浮かべ、続けた。

「都会での生活に疲れたり、自分を見失ったりした人が、この宿でゆっくり過ごしながら、再び自分自身を見つめる――。私たちはそんな宿を目指してきました。」

その言葉を聞き、浪平は胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じた。自分もまさに今、ここで再び自分自身を見つめ直しているのかもしれないと思ったからだ。

食事を終えると、浪平は再び部屋へ戻り、静かな夜の景色を眺めた。窓の外は深い藍色に染まり、星々が穏やかに瞬き始めている。ここに来るまでは、大多喜町が自分の人生に何らかの意味を持つなど、想像すらできなかった。それが今、この宿の静けさの中で、自分が町から与えられた何かを、静かに受け取っていることに気づいていた。

浪平は小さなデスクに座り、手元のノートに今日感じたことを丁寧に記し始めた。

『この町は、自分が思っていたよりもずっと美しく、穏やかで、可能性に満ちている。ここで暮らす人々の優しさや町への誇りに触れて、自分もいつしか町を愛していることに気づいた。何か、自分にもできることがあるだろうか――』

夜が深まるにつれ、宿全体が静寂に包まれ、柔らかな静けさだけが漂う。浪平は眠る前にもう一度、窓の外に視線を送った。町の夜は穏やかで、心に染み入る静けさがあった。

自分がこれまで気づけなかった故郷の真実――町の豊かな資源、可能性、そこに暮らす人々の温かな心。そのすべてが静かな感動となって、浪平の心をゆっくりと満たしていく。

「大多喜町に戻ってきて、本当に良かった。」

小さくそう呟いた浪平の声は、夜の静寂に溶けていった。

宿り木のように穏やかな夜は、彼に新たな夢と希望を宿しながら静かに更けていった。