説明会が終わった会場には、重苦しい沈黙が残されていた。大勢の地元住民が静かに去っていき、その後ろ姿には言葉にできないほど複雑な想いが滲んでいるようだった。彼らが残していった椅子をゆっくりと片付けながら、細尾勝道はその沈黙を肌で感じていた。椅子の一つひとつが住民たちの不安や戸惑いを物語っているように思えた。
勝道は椅子を運びながら、住民たちが口にした数々の言葉を頭の中で繰り返していた。温泉源の問題、川の水量、地盤沈下のリスク、大気汚染、騒音や振動による生活環境への影響――それらの懸念が単なる技術的な問題にとどまらず、この土地に生きる人々の暮らしそのものを揺るがしかねないことを改めて思い知った。
片付けがほぼ終わった頃、会場の入り口から静かな足音が響いてきた。見ると、東京帝都大学の稲葉教授が穏やかな表情で近づいてきていた。教授の表情には疲れの色も見えたが、その目には勝道を気遣う柔らかな光があった。
「細尾君、今日は初めてこういう場を経験したんじゃないかな」
教授はそう言うと、勝道の隣に静かに立った。勝道は軽くうなずき、自分の中の気持ちを素直に口にした。
「はい、正直に申し上げて、技術がもたらす影響というのをこれほどまでに重く感じたことはありませんでした。人々の暮らしや感情にこんなに深く関わるものだとは――」
言葉の途中で、勝道はふと口ごもった。自分の心の内をうまく言葉にできないもどかしさが胸を締め付けたのだ。しかし教授はそれを穏やかに受け止め、静かな口調で語りかけた。
「それでいいんだよ。技術とは本来、人々の暮らしを守り豊かにするために存在するものだ。だが同時に、技術がもたらす変化は常に人々を不安にさせる。その不安や懸念にどう向き合い、どう対話を続けていくか――それが私たち技術者に課せられた大切な役割なんだ」
教授の言葉は穏やかだが力強く、勝道の胸の奥深くに響いた。その言葉は、彼が心の奥底で感じていた不安や戸惑いを的確に捉え、優しく包み込んでいた。
さらに教授は静かな微笑みを浮かべ、続けた。
「実はね、千葉の大多喜町でも天然ガスを使ったエネルギー開発の研究をしているんだ。そのプロジェクトにも君と同じように若い技術者がいてね。東京帝都大学の学生で赤沢浪平という青年なんだが、彼もまた地域との葛藤に向き合いながら進んでいる。君と同じように悩み、迷いながらね」
「赤沢浪平さん……」
勝道は、その名前を静かに口にした。顔も知らない青年だったが、その名前が妙に心に響いた。同じような葛藤や責任を抱え、地域の人々と向き合っている若者がいる。その事実が、勝道の心に新たな感情を芽生えさせていた。自分一人だけが悩んでいるわけではない、というささやかな安心感と同時に、技術者としての責任や使命感が徐々に彼の心の中で明確になってきていたのだ。
教授はさらに優しく続けた。
「細尾君、君にはまだ多くの経験が必要だろう。しかし、今感じているその葛藤や迷いは、君が優れた技術者になるためにとても大切なものだよ。簡単に結論を出さなくていい。迷いながら、一歩ずつ地域や人々と向き合い、対話を続けていけばいいんだ。それこそが、技術者として最も重要な資質だと私は信じている」
教授の言葉を受けて、勝道は深く頷いた。その目には、小さな決意の光が宿り始めていた。
その晩、宿舎の自室に戻った勝道は窓辺で静かに夜空を見上げていた。星空は透き通るように美しく、深い静寂の中で、彼は自問を繰り返していた。
(自分はこれから、この地域とどう向き合っていくべきなのだろうか。技術者としてどのような責任を果たしていけるだろうか――)
夜の静けさの中で繰り返されるその問いに、簡単な答えなど見つからなかった。しかし彼は、その答えを焦らずじっくりと探していこうと思った。教授が言ったように、一歩ずつ対話を続けながら、地域や人々とともに進んでいくことこそが、自分の役割なのだと静かに覚悟を決めつつあった。
窓から吹き込む夜風がそっと彼の頬を撫でた。勝道はゆっくりと目を閉じた。
この日、彼の中には確かに新たな芽が生まれていた。それは小さいながらも確かな芽――技術者としての静かで力強い覚悟の芽であった。