明け方の川辺には、柔らかな霧がうっすらと広がっていた。
勝道は、静かな大谷川の流れを前に、じっと立ち尽くしていた。夜の冷気がまだ残るその空間は、朝日がゆっくりと射し始めるにつれて、次第に淡く照らされ、周囲の木々の輪郭を少しずつ明らかにしていった。透明な水はゆるやかに流れ、薄明の中に、その存在をひそやかに主張している。
彼は、昨晩の稲葉教授との対話を何度も反芻していた。教授の言葉は、技術者として生きる上で重要な意味を持っていた。けれど、その言葉の意味を頭で理解することと、心の奥底に染み込ませることとの間には、まだ少しの距離があった。
しばらく川辺を歩きながら、彼は自然が持つその静かな力に圧倒されるような感覚を覚えた。川は黙って流れているだけだが、その沈黙は雄弁であり、自然の持つ計り知れない力や、時の流れを超えた叡智のようなものが感じられた。
勝道が川のほとりの古びたベンチに腰掛け、ぼんやりと水面を眺めていると、静かな足音が聞こえてきた。振り返ると、昨日の説明会で温泉への懸念を示していた、年配の男性がゆっくりと歩いてきた。彼は勝道の姿を見ると、小さく穏やかに微笑んだ。
「おはようございます。細尾電力の若い方ですね」
男性の声には、穏やかな温かみがあった。勝道は礼儀正しく頭を下げ、静かに挨拶を返した。
「おはようございます。昨日はありがとうございました。皆さまのお話を聞いて、考えることがたくさんありました」
男性はゆっくりとベンチの横に立ち、穏やかな声で言った。
「私はこの川の近くで生まれて、ずっとこの土地で暮らしてきました。この川の流れを眺めていると、自分の人生を振り返るようでね。川というものは、私たちが日々生きていく中で、いつもすぐそばにありながら、同時に遥か遠いところを流れているようにも思える。不思議な存在です」
勝道は静かに男性の話に耳を傾けていた。
「昔、この川は今よりずっと厳しかった。時には暴れ、洪水を起こしたりもした。でもその厳しい川が、私たちに自然とのつきあい方を教えてくれたんです。自然は人間の力では完全に制御できないものだと――。でも、共に生きる方法はきっとあるのだと」
男性は一度言葉を切り、遠く川上を見つめていた。その視線の先には、彼が長年積み重ねてきた記憶の欠片が浮かび上がっているように見えた。
「地熱や天然ガスの発電を否定したいわけじゃないんです。ただね、私たちはこの川や山、自然そのものと共に生きてきました。単に技術が進歩すればいいということではなく、どうしたら地域や自然と共に歩めるのか、その方法を一緒に探したいだけなんです」
勝道は深く頷きながら、自分の心にある迷いや不安が徐々に整理されていくのを感じていた。男性の言葉には、ただ懸念を示すだけではない、深い愛情と優しさが宿っていた。
男性はさらに言葉を続けた。
「君のような若い技術者が、これから地域を背負っていく。その責任は大きいだろうし、不安も多いでしょう。でも、技術が地域に馴染むためには、君自身がまずこの土地を深く知り、愛していく必要がある。人も自然も、まず心を開いて付き合うことが大事だと思うんです」
その言葉は、稲葉教授が語った内容と重なり、勝道の胸に強く響いた。技術者とはただ技術を扱うだけでなく、人々の想いや暮らし、自然との関係を深く理解することが求められるのだと、改めて感じさせられた。
男性は微笑みながら小さく会釈し、ゆっくりと川辺を歩き去っていった。その姿が見えなくなった後も、勝道はしばらく動かずに川を見つめ続けていた。
大谷川の流れは相変わらず穏やかで、ただ静かに時を刻んでいる。その流れは、地域に生きる人々の過去や未来を抱き込みながら、決して留まることなく流れていく。
勝道は胸の奥にある新たな感情をゆっくりと受け止めた。それは、技術者としての静かな責任感であり、地域や自然に対する深い共感だった。彼の心の中で、その感情は確かな形をとりつつあった。
彼は立ち上がり、宿舎に戻るための道をゆっくりと歩き出した。朝の光は柔らかく、川辺の草花を淡く照らしている。その道のりは、昨日よりも少しだけ軽く感じられた。
まだ完全な答えは見えていなかったが、少なくとも彼の中には、一つの方向性が見えてきていた。それは、技術と人々、自然との調和を目指し、地域社会と真摯に向き合って進むという、静かで揺るぎない決意だった。
朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ彼は、初めて心からの安堵を感じた。迷いや不安が消え去ったわけではないが、これから歩む道が、今なら少しずつ見えてきたような気がした。
穏やかな川の流れは、彼の胸の内に新たな覚悟をゆっくりと刻みつけながら、これからも変わらず静かに流れていくのだった。