小学校最後の年が始まった。羽束えつこはこれまで積み重ねてきた小さな勇気と穏やかな日常の中で、安定した日々を送っていた。しかし、中学校への進学が少しずつ現実味を帯びるにつれて、彼女の心の奥底には新たな不安が静かに芽生えつつあった。
中学校という未知の世界は、えつこにとって新しい挑戦でもあり、同時に大きな変化でもあった。内気で人見知りな自分が、新しい友達や先生とどう接していくべきかを考えるたびに、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
そんなある日の昼休み、教室の片隅で本を開いていると、友達数人が中学校の話題で盛り上がっている声が聞こえてきた。彼女たちは新しい部活動のこと、制服が変わること、授業が難しくなることなどを楽しそうに話していた。友達の顔には期待や楽しみが見え隠れしているが、えつこはその会話を聞きながら、一人静かに不安を膨らませていた。
「新しい友達ができるかな。勉強についていけるかな」
えつこは心の中で呟きながら、本のページをぼんやりとめくった。友達の明るい笑い声が教室に響く中で、彼女だけが別の世界に取り残されたような孤独を感じていた。
その日の放課後、えつこはいつものように羽束川の川辺へと向かった。川辺は彼女にとって特別な場所だった。穏やかな川の流れと静かな環境は、えつこに心の整理をする時間を与えてくれた。
川辺に座りながら、彼女は小学校に入学した時のことをふと思い出していた。入学当初は何もかもが不安でいっぱいだったけれど、少しずつ環境に馴染んでいき、友達との距離も縮まっていった。その経験を振り返ると、少しだけ心が軽くなるような気がした。
えつこはゆっくりと目を閉じて、深呼吸をした。
「きっと、中学校でも同じように少しずつ慣れていくんだろうな」
小さな声で呟くと、不安が完全に消え去るわけではないが、わずかに胸の中が軽くなったのを感じた。川の水面に映る夕日が穏やかな光を放ち、その景色が彼女の心を静かに落ち着かせてくれた。
やがて彼女は立ち上がり、家への道をゆっくりと歩き始めた。道の途中、近所の家の庭先で遊んでいる小さな子どもたちの姿を見かけた。彼らは楽しげに笑い、何の不安もなさそうに元気に遊んでいる。
「あの子たちもいつか、私みたいに不安を感じる時が来るのかな」
そう思うと、えつこの胸に不思議な共感と優しさが湧き上がってきた。人は皆、変化を前にして不安を抱くのだということを、彼女は改めて感じた。
えつこは家に着くと、カバンを下ろしながら母に微笑んだ。
「おかえり、えつこ。今日はどんな一日だった?」と母が尋ねると、えつこは小さく微笑み返した。
「うん、普通だったよ」
その言葉にはまだ完全な自信が込められているわけではなかったが、それでも彼女の中には、小さくとも確かな希望が灯り始めていた。