翌朝の柔らかな陽射しが、窓辺に積まれた資料を静かに照らしていた。
前日の夕方、勝道は東京帝都大学の稲葉教授から一通の封筒を受け取っていた。
開けてみると、中には教授が研究を指導している学生の活動報告がまとめられていた。
その中に記されていた名前――「赤沢浪平」という文字が、静かな部屋の中で彼の目を引きつけていた。
赤沢浪平は、千葉県の大多喜町という地域で天然ガスを利用したエネルギー研究に携わっている学生だった。
資料には、その若い技術者が抱える地域との対話や環境保全の課題、そして彼が感じる技術と地域社会の関係性に対する誠実な想いが丁寧に綴られていた。
資料をゆっくりとめくる勝道の目には、一つひとつの言葉が静かに沁み込んでいった。
「天然ガスは地域の貴重な資源ですが、同時に環境保護や安全面での慎重な対応が不可欠です。私は技術者として、地域の人々の想いや不安を真剣に受け止め、対話を続けていくことで、技術が地域の暮らしを豊かにすることを目指しています」
資料には、赤沢が地域の説明会で感じた住民たちの戸惑いや不安、そしてそれに対して真摯に向き合う彼の葛藤や苦悩までもが記されていた。その文面を追ううちに、勝道は自分自身が抱えてきた感情や迷いと、赤沢が直面している課題が、まるで鏡のように重なっていることに気づかされた。
勝道は、資料の中にあった赤沢が取り組んでいる大多喜町の天然ガス採掘現場の写真をじっと眺めた。
美しい山々に囲まれたその場所は、大谷川の風景ともどこか通じるものがあり、彼の胸に深い共感が芽生えていた。
(赤沢さんも、僕と同じように地域と向き合っている――。)
その事実を知っただけで、彼は不思議な安堵感を覚えた。まだ見ぬ技術者が、自分と同じような悩みや課題を抱えながら、遠い土地で努力している。その存在が、技術者としての孤独感を少しだけ和らげてくれたような気がした。
昼過ぎ、主任の山本から再び呼び出された。
「勝道、今日から本格的に地質調査と環境影響調査が始まる。稲葉教授のチームとも連携を取りながら、しっかりと取り組んでくれ」
勝道は主任の指示にしっかりと頷いた。
調査が始まると、彼は一日の大半を大谷川の流域で過ごした。河川の水質調査や土壌サンプルの採取、さらには地盤の安定性を確認するための詳細な測量作業が続いた。作業の合間にも、彼の心はいつも赤沢の資料に書かれていた言葉や写真を思い出しながら動いていた。
調査を続けるにつれて、彼は技術の導入に伴う具体的なリスクや環境負荷に直面し、その現実に改めて圧倒されそうになった。土壌の脆弱さ、川の流量変化、地下水への影響――これらの問題は理論では理解していても、実際に目にするとまったく別の現実感をもって迫ってきた。
それでも、彼の胸の中には赤沢の資料にあった言葉が静かに響いていた。
「技術と地域社会は敵対するものではありません。技術者として、地域の自然や人々の暮らしに寄り添いながら、共存の道を探し続けることこそが必要なのです」
その夜、宿舎に戻った勝道は再び資料を広げ、赤沢が作成した報告書のページを静かにめくった。資料に込められた真摯な情熱と誠実さは、彼自身が目指すべき技術者としての姿を、改めて示しているように感じられた。
遠く離れた土地で、自分と同じような問題に取り組み、同じように地域を愛し、同じように悩み続けている一人の若い技術者がいるということ。それを知っただけで、彼の胸には温かな勇気と穏やかな決意が芽生えていた。
窓の外に目を向けると、夜空に無数の星が静かに瞬いている。
勝道はその星空を見上げながら、心の中で赤沢にそっと語りかけた。
(まだ会ったこともないけれど、あなたもきっとこの同じ空を見上げて、悩み、迷いながら進んでいるのだろう――。いつかきっと、直接言葉を交わす日が来る。)
その日が来るまでに、自分もまた地域の人々と心から向き合い、技術と自然の調和を見つけ出さなければならない――。
静かな決意を胸に秘めながら、彼は星空を見上げ続けた。
同じ時代を生き、同じ課題を抱えるまだ見ぬ仲間への、深い共感と静かな絆を心に刻みつけるように。