調査を開始してからひと月ほどが過ぎ、大谷川上流の地質調査チームは、慎重かつ丹念に調査を重ねていた。
その結果がまとめられた報告書が勝道の手元に届いたのは、山々の紅葉が色づき始めた頃だった。
報告書の表紙をめくった勝道は、その内容を見て息を呑んだ。
『当初の予測よりも地盤が脆弱であり、陥没や沈下の危険性が予想をはるかに上回る』という文言が明確に記されていたからだ。
急ぎ主任の山本に報告を入れると、彼は目を閉じて深いため息をついた。
「予測より悪いか……。技術的に対処可能なレベルなのか?」
「現時点では何とも言えません。ただ、リスクが高いことは確かです。」
山本は勝道の目をじっと見つめた後、静かに言った。
「分かった。すぐに社内で緊急会議を開く。すべてを隠さず報告し、対策を検討しよう。」
翌日の会議室には、技術部門、現場責任者、経営層、そして協力会社の幹部らが集まった。
調査報告を勝道が丁寧に説明すると、会議室には重い沈黙が広がった。やがて、その沈黙を破ったのは、現場のベテラン技術者・神崎だった。
「率直に申し上げます。このままプロジェクトを続ければ、大谷川の地盤は確実に沈下します。地域住民の安全を考えれば、一刻も早く工事を中止すべきです。」
彼の言葉に、現場スタッフが静かに頷いた。
「これ以上のリスクは背負えない」「住民の生活を脅かすことだけは許されない」といった声が、次々と重なった。
その声を遮るように、経営企画部の島田が強い口調で言った。
「しかし、簡単に止められる問題ではないでしょう。このプロジェクトにどれだけの資金が投入されているか、皆さんもご存知のはずです。もし撤退すれば、多額の損失が発生するだけでなく、会社の信頼や今後の事業展開にも大きな影響が出ます。」
さらに取締役の谷口が冷静に意見を述べた。
「我々は慈善団体ではない。利益を追求することもまた、社会的な責任の一つだ。多少のリスクを負ってでも前進する決断は必要だろう。」
谷口の意見に協力会社の幹部が続いた。
「現場の安全は重要だが、仕事がなくなれば私たち協力会社の従業員の生活も苦しくなる。経済活動が止まれば、地域社会にも影響が出ることを忘れてはいけない。」
それぞれの立場からの意見が鋭く対立し、議論は次第に感情的なものになっていった。その時、勝道は初めて、組織の中でこれほど大きな利害対立があることを痛感した。技術者として誠実に調査を進めてきたつもりだったが、その結果がこれほどの波紋を引き起こすとは予想していなかった。
緊迫した議論が続く中、山本主任がようやく静かに口を開いた。
「皆さんの意見はよく分かりました。しかし、このまま感情的に議論を続けても答えは出ません。外部の第三者機関による地質調査および環境影響評価を実施し、その結果を踏まえて再度議論するというプロセスを提案します。」
主任の提案に、経営陣も現場も一旦落ち着きを取り戻した。
「第三者の評価による客観的なデータが必要だ」という点で合意がなされた。
その夜、勝道は宿舎で深い疲れを感じながら、再び稲葉教授が送ってくれた赤沢浪平の資料を手に取った。赤沢は天然ガスの採掘プロジェクトで、地域住民との対話を何度も繰り返しながら、技術と環境、安全と利益の間で悩み抜いている。その姿は勝道の今の状況と驚くほど重なっていた。
(僕たちが目指すべきものは、一体何なのだろう?)
利益を追求する経営層、生活を守ろうとする協力会社、安全を求める現場――それぞれの意見にはそれぞれの正当性がある。しかし、どれか一つの正義を選ぶことは難しい。
勝道は資料を閉じ、窓の外を静かに見つめた。遠くで川のせせらぎが微かに聞こえる。
彼の心に浮かんだのは、技術というものの本質的な役割だった。
(新しい技術や工法を使えば、地盤の問題を克服できる可能性はないのだろうか?)
彼はふとそんなことを考え始めた。
利益を犠牲にせず、安全を確保する道が、まだあるかもしれない。
勝道はすぐにそのアイデアを主任の山本に伝えようと決めた。
窓の外の夜空を見上げながら、自分の中に小さな希望が芽生えるのを感じた。
地盤の揺れが組織を揺るがすように、自分自身の心も激しく揺れていた。だがその揺れの中に、明日への新たな決意が生まれつつあることを、勝道は確かに感じていた。