季節がさらに深まり、市川三郷町は新緑の輝きが一層増していた。富士川沿いの道は緑が濃くなり、川のせせらぎも心なしか力強く聞こえてくるようだった。
ある日の昼下がり、みさとは「和紙工房 ゆらぎ」での作業を終えると、いつものように昼食を持って川辺へ向かった。この場所は最近彼女のお気に入りになっており、川の流れを見ながら食事をするのが日課になりつつあった。
川沿いの小さなベンチに腰掛けてお弁当を開くと、富士川を渡る風が彼女の頬を優しく撫でていく。静かに流れる川を眺めながら、彼女はふと兄・祐介との最近の会話を思い出していた。
『外の世界を見てみるのもいいじゃないか。その上で、この町に戻ってくればいい。』
兄が言ったその言葉が、心の中で何度も繰り返されていた。彼女自身、この町で生まれ育ち、その穏やかさや温かさを愛していたが、最近は知らず知らずのうちに町の外への関心が少しずつ強くなっているのを感じていた。
「私、この町が本当に好き。だけど……」
みさとは小さくつぶやいた。自分の心の奥で何かが静かに動き始めていることを否定できなかった。
そのとき、少し離れたところで子どもたちが楽しげに遊ぶ声が聞こえた。振り向くと、地元の保育園の子どもたちを連れた美紀の姿があった。美紀は楽しそうに子どもたちと笑顔を交わしながら、川辺の草花を指差しては何かを話している。みさとは微笑ましくその光景を見つめた。
しばらくして美紀がみさとに気づき、笑顔で手を振って近寄ってきた。
「みさと、ここでランチ?いい場所だね」
美紀は屈託のない明るい笑顔で隣に腰掛けた。
「最近、ここが私のお気に入りスポットなんだ。川を見てると落ち着くの」
みさとが微笑んで答えると、美紀は少し真面目な顔になって問いかけた。
「ねぇ、みさとは最近、何か考えてることがある?」
意外な問いかけにみさとは驚いたが、少し躊躇った後、小さく頷いた。
「実はね、最近、町の外に出てみたいって思うことがあるの。でも、この町も大好きだから、それが自分でもよく分からなくて……」
美紀はその言葉に静かに頷き、優しく答えた。
「私もね、前は外に出たいって思ったことがあったの。でも保育園で働き始めて、この町の子どもたちを見てると、ここにいたいなって気持ちが強くなったかな。でも、みさとは一度外に出てみるといいかもね。それで本当に自分が好きな場所がわかるかもしれない」
その言葉に、みさとは心が軽くなった気がした。
「ありがとう、美紀。ちょっと気持ちが整理できそう」
美紀は明るく微笑み、
「いつでも話聞くからね。またここでランチしよう!」
と言って子どもたちのもとへ戻っていった。
午後の仕事に戻りながら、みさとは自分の心が少しずつ整理されていくのを感じていた。町への愛着と外への憧れが、両立してもいいのだと少しずつ分かり始めていた。
夕方、帰路についたみさとは、富士川の橋の上で再び川を見下ろした。川面には夕暮れの空が映り込み、静かな波紋がゆっくりと広がっていた。その波紋のように、彼女の心の中でも何かが静かに広がり始めているのを感じていた。
その夜、自室で日記帳を開いたみさとは、静かな決意を込めて書き記した。
『私、この町が好き。でも、外の世界も知ってみたい。』
小さく呟いたその言葉は、川の流れのように穏やかで、けれど確かな未来へとつながっているように思えた。
―次第に大きくなる心の揺れを感じながらも、みさとはこれからの自分の道を見つめ始めていた。