1章 (14) 静かな流れに刻まれた歴史

5月も半ばに差しかかり、市川三郷町は緑が鮮やかな季節を迎えていた。富士川の流れは穏やかで、川沿いに広がる新緑の木々は、日ごとに色を深めていく。その柔らかな緑を見つめながら、市川みさとは最近、町の水にまつわる話が気になっていた。

先日、葵から聞いた町の水道が湧き水であることや、芦川の水力発電所が今でも稼働しているという話が心から離れなかった。自分が長年暮らしてきたこの町のことなのに、まだまだ知らないことが多い。そのことが彼女の心に小さな波紋を生んでいた。

短大の授業が終わったある日の午後、みさとは葵に誘われて町役場を訪れた。葵が勤める観光振興課は、庁舎の奥にひっそりと佇んでいる。壁に貼られた町の観光ポスターや地元イベントの案内を眺めながら、みさとは初めて入る役場の雰囲気に新鮮な感覚を抱いていた。

「こんにちは。今日はお邪魔します」

「いらっしゃい、みさと」

葵が笑顔で迎えてくれた。彼女は手元にいくつかの資料を揃え、みさとを小さな応接スペースに案内した。

「ここの資料、自由に見ていいから。役場には町の歴史や自然環境についての詳しい資料がけっこうあるのよ」

葵の言葉に頷き、みさとは資料を手に取った。そこには、芦川の水力発電所に関する古い写真や設計図、新聞記事の切り抜きなどが丁寧に保管されていた。古い白黒写真には、昭和初期と思われる建物や発電施設、そこで働く作業員たちの姿が写っている。資料をめくる中で、最近撮影されたと思われる鮮明な写真も見つかった。

「これが芦川の発電所……今も稼働してるのね」

みさとは資料を見ながら静かに呟いた。その資料から伝わるのは、かつての町の人々の暮らしの息遣いだけでなく、現代まで途切れることなく受け継がれてきた歴史だった。

「そうなの。大正時代に建設されてから、何度も改修されているけど、今でもちゃんと町に電気を送り続けている大切な施設なのよ」

葵の静かな口調に、みさとは歴史の重みを感じていた。自分が何気なく暮らしているこの町には、あまり知られていないけれど確かに存在している営みがある。それを改めて感じられたことに胸が熱くなった。

「葵ちゃん、こんな貴重な歴史があったんだね。私、ずっと町にいたのに知らなかったよ」

「私も役場で働くようになってから初めて知ったの。町のこと、まだまだ知らないことが多いって気付かされたよ。だからもっと伝えたいと思ってる」

葵の瞳には強い使命感が宿っているようだった。みさとはその真剣な表情に惹き込まれ、思わず口にした。

「葵ちゃん、もっと詳しく話を聞いてみたいんだけど、他にも詳しい人っているのかな?」

「いるわよ。実は、うちの課の主任、吉岡さんっていう人なんだけど、町の歴史や水資源についてものすごく詳しいの。町のことなら何でも知ってるし、水に関する研究もしてるんだよ」

「吉岡さん?」

「ええ。きっとみさとなら、話を聞いてすごく面白いと思うよ。よかったら今度、会ってみる?」

葵の申し出にみさとは迷わず頷いた。

「ぜひ!葵ちゃんが言うなら、きっとすごい人だよね」

葵は柔らかく微笑んだ。

「吉岡さんはちょっと変わってるけど、とても素敵な人よ。町のことを深く愛していて、その知識も情熱も半端ないから」

葵のその言葉に、みさとはさらに心を躍らせた。

帰り道、役場を出て富士川沿いを自転車で走りながら、みさとは川面を見つめた。川の流れはいつもと変わらず穏やかで澄み渡っている。でもその水の中には、町の歴史や人々の営み、そしてかつてここで暮らしてきた人々の物語が静かに流れているように感じられた。

『この町にはまだ知らない物語がたくさんある。それをもっと知りたい、もっと感じたい』

彼女の心に湧き上がった小さな決意は、まるで川の水が流れるように静かで、しかし確かな力強さを持っていた。

夕焼けの空を見上げながら、みさとは自分の心が少しずつ、新しい世界に向けて動き始めていることを感じていた。